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古澤良治郎ベターデイズ・コンプリートBOX
日本ジャズ界で最も愛されたドラマー、そしてコンポーザー、古澤良治郎の日本コロムビア、ベターデイズ・レーベルにおける全軌跡がオーダーメイド・クラブで投票受付開始!
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6/27更新 特典決定! 古澤良治郎ベターデイズ・コンプリートBOXを
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目次 |
1.古澤良治郎CD-BOXについて
この成功で、次の作品を作ることが決まりましたが、全国ツアーで自信を深め、揺るぎないサウンドが出来上がっていましたから、東京の都市センターホールでのコンサートをライブ録音することに決定、これがレコード「12,617.4キロ」として発表されます。このアルバムの成功は、山下洋輔、森山威男、向井滋春、明田川荘之、渡辺香津美、本多俊之などのゲストの充実も大きな要因でしょう、何しろ当時の日本ジャズシーンのバリバリが勢揃いしてました。勿論、毎月1回デュオ共演をしていた異色のフォーク・シンガー三上寛の参加も見逃せません。それから、古澤さんのメロディーを小学生に歌ってもらうという発想が斬新でした。洗練された児童合唱団のイメージではなく、校庭や野原を駆け回る自然児の声を取り入れたい。事務所設立時にバイトで出入りしていて、当時は小学校の音楽教師だった伊原先生に頼んで東京の荒川区立赤土小学校の児童に参加してもらいました。この試みは、のちに、伝説となる古澤良治郎、リー・オスカーの赤土小学校コンサート実現へと繋がっていきます。
古澤良治郎とリー・オスカーの共演は名作「あのころ」そして「フレンドリー」として記録され、以後、リー・オスカーはしばしば来日して、古澤とツアーやセッションをおこなっていきます。この二人の友情はこれからも語り継がれていくほどに固いものでした。 古澤は大学進学のために生地・仙台から東京・西荻窪へやってきましたが、以後、50年近くも西荻窪の地に住み続けました。 よく、打ち上げを西荻窪駅前の「庄屋」でやりましたが、当時「庄屋」の店長が古澤さんの大フアンで、ライブは来てくれるし、LPは自分の店の客にも薦めてくれる、店長以外にも周りにはそんな人が沢山居ました。西荻の街を歩けば「古澤さーん」と声がかかります。後に、後に西荻窪をテーマにしたレコード「たまには」(たまには西荻にあそびにきませんか)に発展するのも当然のことでした。 こうして、一連の作品を聴いていくと、改めて、古澤の音楽の豊かさ、美しさ、愚直なまでの真面目さをひしひしと感じます。 これらの作品は個々にも優れた作品ですが、今、こうしてBOXとして古澤良治郎の絶頂期をとらえた貴重な記録を手にすることが、どんなに幸せなことであることか。是非、実感していただきたいと希望しています。 川村年勝
(当時、古澤良治郎が所属していた事務所の代表で、マネージメント及びアルバム制作を担当した) 2.ドラマー古澤良治郎
ドラマー古澤良治郎が優れたコンポーザーとして開花したのはベターデイズレーベル(日本コロムビア)がベースにあったからと云えます。短いメロデイーに情景や物語が織り込まれた作品はフュージョン真っ盛りのジャズシーンに涼風が吹き抜けた爽やかさがありました。
古澤良治郎の代表作「キジムナ」や「あのころ」が発表された1980年代前半の音楽界はまさにLP時代からCD時代への変換期でした。即ちそれまでのアナログ方式録音からコンピューターを駆使したデジタル方式に変わる狭間だったのです。 当代随一を誇ったベターデイズレーベル録音スタッフは連日のように運び込まれる新型機種との格闘の日々でありました。 大型コンソールやマルチトラックレコーダーが取り外されてコンパクトなスタジオに様変わりする現実を見ながら、彼らの実験的テイクに朝まで付き合った時代が蘇ります。 特にブルースハープの王者リー・オスカーを迎えて録音された「あのころ」の録音風景は今思い出すと滑稽でした。
アナログの申し子のようなリーがこれまたアナログしか信じられない古澤に向かって「何か気に入ってるリズムパターンを叩いてくれ!」
全く先の見えない要望に戸惑いながらも、古澤がリズムパターンを叩く事数時間、パターンを叩く度に「違う」とか「もう少し」とか「近い」とか「いい感じ」とか云っていたリーが、突然!「良し!。今のリズムにメロデイーを乗せてやってみる」と言い放って録音ブースに入り、ハープを取り出して吹いた第一音が余りにも迫力があって、立ち会っていた全員が驚愕した風景が思い出されます。 傑出した作品集がボックスになるのはこの上ない歓びであります。 川村 年勝
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"sayonara" 古澤さん
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日本コロムビアからレコード制作のために採算分岐点として示された数字は、それまでの実績の倍でした。しかしデビュー作以来、着実にファンを獲得してきたことを思えば、頑張れば難しい数字ではないと考えました。
例えば「キジムナ」(木の精)と云う曲名にしてアルバム・タイトルの発想は斬新だったし、収録曲の「トゥアレグ」(青い種族)のリズムパターンも奇抜でした。既に民族学を極めつつあった古澤の頭には従来のジャズのフォームに拘らない旋律が浮かんでいたのです。ずっーと後の、ワールドミュージック・ブームの先駆けでした。
「キジムナ」は望月英明(ウッドベース)と川端民生(エレキベース)のツインベースにメロデーを弾かせるという新しい試みで、サウンド作りも録音も難しかった。両ベーシストのホジティブな音楽観が功を奏したのかもしれません?
録音をしながらこれまでの作品以上にセールスする作戦を考えていました。
デビュー作の「ユウ・ウォナ・レイン」、それに続く「ラッコ」「スパイシー・アイランズ」の実績から、30カ所以上のツアーを組んで一カ所100枚で合計3,000枚、そんな皮算用でした。
そして、ツアーの蓋を明けてみるとあにはからんや、A面一曲目に入れた「エミ」が大評判でした。優しいメロデイー・ラインに美しいコード進行のアドリブ、まるであらかじめ書き込まれたメロディーを吹いているような演奏は、それまでジャズを難しい音楽と考えていたファンにも、とても親しみを持って迎えられていきます。
事務所がツアーで販売するために買い取ったLPの売れ行きも良くて、胸を撫で下ろしたものです。
とにかく、大冒険でしたが38カ所のツアーを強引に敢行したことが、古澤を全国区にしました。何しろ、一度、古澤メロディーを聴いたら忘れられない、それほど印象的な音楽だったのです。それから、似顔絵をイラストにしたジャケットも印象的で、その後の古澤の「顔」になりました。
また、当時のコロムビア(ベターデイズ・レーベル)は活気に溢れていて、制作、録音、宣伝、営業とスタッフ一丸でした。会長だか社長が気に入ってくれたのも大きかったらしい。